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呉越同舟 ~ラッキーストーリー✕山本の、特別な一戦~

山本某―。 あの忌まわしい名前を口にすること、わざわざややこしい名前をいちいち打つことすら厭になる。 アレ(ロック除け)が、なんと、ラッキーミーティアの弟・ラッキーストーリーに、本日(8月31日)のレースで騎乗するというのだ。第一報を知ったとき、私は目を疑った。 このコンビの実現は、私にとってどのような意味合いを持つのか。 まずは、ラッキーミーティアの歴史から振り返らなければなるまい。 能検で、1番手入線とはならなかったものの、期待を持たせる走りを見せてくれたラッキーミーティア。我々出資者の期待も高まる中、5月12日のデビュー戦を迎えた。 ラッキーミーティアは、初の実戦で思いのほか進んでいかず、しかしながら勝負所でじわじわと上昇開始の気配を見せた、正にその時、門別に悪魔が降臨した。 アレが操るアンティキティラによる悪質極まりないタックルにより、ラッキーミーティアは走りを乱して大きく後退し、惨敗した。アレの乱暴粗雑な騎乗は擁護の余地もなく、さ行の2文字目と、な行の4文字目を組み合わせた非難は当然のものであった。 悪夢は続く―。 仕切り直しの2戦目。「精神面は大丈夫かなと思う」と送り出されたラッキーミーティアだったが、スタート後、まともに加速せず、大きく馬群から離れた後方を追走し、直線でも伸びる兆しを見せず、敗れた。 ラッキーミーティアの2戦目が終わった…というだけではない、アレのせいで、ラッキーミーティアの精神が破壊され、すべてが終わってしまったという、絶望的確信があった。 正直私は諦め、アレを何とかできないものか、そういえば、源氏物語だったかで、恨みの気持ちで人をとうとう●した話があった…。というようなことに思いを巡らせていたものである。 しかしながら、メイショウササクニこと、佐々木先生は諦めず、馬具を工夫する。パシュファイヤー付きのブリンカーを付け、3戦目に挑む。 やはり、スタートでダッシュが決まらない。2戦目と同じ結末か・・・、もう画面オフにしていいんじゃね?ぐらいの気持ちで直線に移る馬群を見ていると、大外から何か一頭突っ込んできた。 我々のラッキーミーティアである。ラッキーミーティアは死んでいなかったのだ。 勝てはしなかったが、2着。真っ暗い闇の中に絶望の光が差し込んだ。 その後、馬体減を「ヘイキューブ」なる飼料で克服するなど、本馬に手を尽くしてくれた佐々木先

風雲急を告ぐ(2022前期、一口馬主振り返り・1月2月編)

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タイムラインに溢れる、「一口馬主上半期振り返り」。 せっかくなので、ブログネタにすることにした。 兎にも角にも、最高の上半期であったというほかない。 最大の功労者であるパンサラッサだけでなく、全ての出資馬、また、出資馬のために尽力してくださった関係者の皆さんに、深く、深く感謝申し上げたい。 月ごとに振り返っていく。 1月 1月は私にとって「鬼門」の月である。私の記憶が確かならば、2014年のレッドサクセサー以後、1月の中央競馬の勝ちはない。 結局、今年も「中央では」勝てなかった。 最も勝利に近づいたのはルージュカルミアであったが、勝つためにはどこに馬を導き、溜めたエネルギーを爆発させればよいか、そのためには勝負所、それに先んずるタイミングでどのように馬を導けばよいか―。勝利へのビジョンが全く描けていない鞍上の拙い騎乗もあり敗北した。しかし、直線で見せた豪脚は、勝ち上がる可能性が高いと期待を抱かせてくれるものであった。 中央では勝てなかったが、地方では嬉しい勝利があった。 YGGのアイドルとでもいうべき、ラッキーミーティアが南関東での2勝目を挙げた。 悪夢のデビュー戦、絶望の2戦目のころはとても想像できなかった活躍が嬉しかったし、また、浦和の桜花賞出走への夢を抱かせてくれた。 2月 打って変わって2月。良い「波」がやってきた。ここまで大きな波が来ると、嬉しいけれど、3月が怖いワと内心震えながら過ごしていたことを正直に告白したい。 「波」と書いたが、ポエムを描いた色紙を用意したりはしていない。 閑話休題― まずは、パフィリア。小倉の未勝利戦で大まくりを見せ、2022年、出資馬での中央競馬初勝利を挙げてくれた。今後の飛躍を期待させたが、同馬は後日、心不全を発症し、急逝してしまったのである。本当に悲しい出来事であった。同馬を含むスターズファンドは、パフィリアに関わりたくて購入したようなものだったし、何より出資馬の死亡ほど、辛いものもない。 2勝目はゼノヴァース。雨降る小倉での鮮やかな勝利であった。これが、レッドアーサー、グランソヴァールたちが挑み、叶わなかった、私にとっての出資馬での障害競走初勝利となった。 だけでなく、偉大なる藤沢メシア名伯楽大調教師先生様との最後のレースを勝利で飾ることが出来た。2011年のレッドシャンクスに始まり、レッドルーファス、レッドレギオン、終身

サイコーキララと石山繁①?

人生はきっかけひとつで大きく変わっていくものである。 それが人生の面白みであり、残酷さでもある。たかが35の若造が何を語ると一笑に付されそうであるが、これは確かであろう。 あのときこうしていれば、こうはならなかったのではないか。逆に、あのときこうしていたから、こうなれたのではないか。そういう「とき」の記憶は、仕事、学業、恋愛、人間関係、勝負事等々、いろんな場面で、誰にでも思い当たることがあるかと思う。 最近の競馬で言えば、昨年の横山武史騎手。エフフォーリアで皐月賞を勝利し初GI制覇を決めると、その後、あれよあれよとGIを勝ちまくった。ダービーでの惜敗は、いつものことなら、外国人騎手に即乗り替わり、お役御免となった可能性もあったが、妙な書き方になるけれども、「コロナ禍」が彼に味方していた。 そういう意味で、彼には運もあった。「人生を左右するとき」をモノにするには、平生の努力を怠ってはならないことは当然のことであるが、運も必要。どれだけ手を尽くしても、人がどうすることもできない領域がある。何とも残酷なものである。 昇竜の如き勢いで高みに上りつめていくエフフォーリアと横山武史を見ていて、思い出したコンビがいる。 サイコーキララと石山繁。 2000年のクラシック戦線は、群雄割拠―といえば聞こえはいいが、中心馬不在の「カオス」な様相を呈していた。牡馬の方は主役候補の一頭に「カク地馬」がいた―ということだけでも当時のカオス感を感じ取っていただけるのではないだろうか。 さて、牝馬であるが― 1999年の阪神3歳牝馬S(レース名は当時のもの。今の阪神ジュベナイルフィリーズ)を制したのはヤマカツスズラン。これが骨折で戦線離脱。 2着ゲイリーファンキーは外国産馬で、当時はクラシックレースに出走することが出来なかった。 3着マヤノメイビーは桜花賞直行。経緯は知らん。 では、4着チアズグレイスは…というと、年明けの紅梅S、エルフィンSで連敗する。 チアズグレイスを両レースで2着に下し、2000年牝馬クラシック戦線の主役に名乗りを上げたのが、サイコーキララであった。 浜田光正厩舎に所属するサイコーキララは、父リンドシェーバー、母サイコーロマン。きょうだいに、1200m3勝のサイコーデボネアがいる。 同馬は1200mでデビューし勝利。2戦目に1400mの紅梅S、3戦目に1600mのエルフィンS

便所の落書きシリーズ③ なぜパンサラッサはドライスタウトが消せなかった火を消せたのか、自己分析

久々のブログ更新である。 下書きを見ていると、以下のような、1月中旬に書きかけたものがあった。  『釣りにあっては、六甲アイランドで、ルアーで太刀魚を釣ったこと。 オタク趣味にあっては、水樹奈々さんのライブを見に行ったこと。 後から振り返ってみれば、ああ、あそこがピークで、あそこから山を下り始めたなというポイントがある。 ドライスタウトによる大願成就は、一口馬主という趣味においては、ピークだったのではないか―。 「出資馬でGIを勝ちたい。」 「地方交流重賞を勝ちたい。」 「非ノーザンでノーザン馬を蹴散らして勝ちたい。」 そのすべてがいっぺんにかなってしまうなんて果報者です。人馬に感謝申し上げたい。 今だからこそ言えますが、出走さえできれば勝つと思っていました。コンシリエーレが回避して出走が決まった時は、不思議な追い風を感じたものです。 さて―これからどう楽しむか。』 ・・・と書いているが、結局この後、ハートオブリバティや、ノルマンディーSFに新たに出資するなど、ピークは過ぎれど、一口馬主という趣味への情熱の火は完全に消えていなかったのである。 しかしながら、ドバイでパンサラッサが大快挙を成し遂げ、完全な一口馬主燃え尽き症候群となり、リアルドンカルロやワラウカドマルガイへの関心をすっかり失ってしまったことはもちろん、出資馬のレースへの情熱も、やや薄らいだ気がする。 たかが地方のレース、海外のレース勝ってこそよ、というような地方競馬蔑視のスタンスだったということではなく、これはぼくの「競馬という趣味を楽しむ土台」によるところが大きいと自己分析している。 ぼくが競馬を見始めたきっかけはダビスタを始めとした競馬ゲームであるが、実際に初めて競馬中継を見たのは、1998年の天皇賞(秋)であった。 逃げて、直線では追い込み馬のような末脚を使う― そのレースでの大本命馬は、そのような紹介のされ方をしていて、これは実際にテレビで見たいと思ったものである。 黄金色に輝く、美しい1頭のサラブレッドが、圧倒的なスピードで他馬を置き去りにしていく姿は衝撃的であり、今でも、鮮やかに脳裏に焼き付いている。初めて見る本物の競馬であったが、これはとんでもない勝ち方をする、日本競馬にとどまらないレベルの歴史的なサラブレッドを見ることが出来た、本物の競馬って面白いものなんだな―と興奮したものである。 ―

便所の落書きシリーズ②・高校生がDQNにボコられたニュースの反応から感じた気持ち悪さについて

タイトルのことについては連続ツイートで書いたが、何のためのブログやねん、ということで、こちらにも書いておくこととする。 高校生がDQNに理不尽にボコられたニュースの気持ち悪さは、DQNのクズさもあるが、何よりも、その手の輩に絡まない方が良い…という高校生の立ち回りの悪さを捉え、自らはどうせ何も知らんぷりして後でSNSででも書く程度の意気地の無さを正当化し、それを助長する意見が幅を利かせていることである。 そういう場合は、一人で立ち向かうのではなく、例えば、電車にSOSボタンがあるならしれっと押すとか、そっと車掌室に向かうとか、自らの素晴らしい、尊敬すべき「正義感」を貫きつつ、自分を守る意味において有効な方法がありますよという助言こそが広まるべきであろう。 若者含め人間の「正義感」をくじき、無理が通れば道理が引っ込む状態をのさばらせておき、それが「賢い生き方」なのだという妙な教訓が広まることには絶対になってはならない。 私は、かの高校生を尊敬し、「私なら近づきませんわーwww」などと外野席で宣う輩が心底気持ち悪いし、侮辱しますね。 ・・・と、ここまでツイートしたところである。 ざっと「電車 トラブル」で調べてみたところ、以下の記事がヒットした。 たばこ注意で高校生に逆ギレ暴行 電車内での迷惑行為、JR東日本が推奨する対応とは(ENCOUNT) - Yahoo!ニュース 「SOSボタンというのがあり、車内の迷惑行為その他の場合には躊躇なく押せばいい。」 自らの意気地なさを正当化したり、DQNの暴力動画を外野席からキャッキャ楽しむのではなく、まずは、こうした「対処法」を知っておき、いざというときには行動に移せるよう備えておくこと。それと、SOSボタン押下による列車の停止や遅延を咎めないこと、そういう風潮を醸成することが求められる。 これらのことに資するために、電鉄会社及び「広義の報道者」は努めなければならない。 さらに、前者においては、SOSボタンを分かりやすく設置すること、後者においては、このような事件が起きないためにどうすればいいか、どのような方法があるかというところまできちんと報道を「やり切る」ことが求められる。 でなければ、第二の「心美しき被害者」が生まれ、いたずらに「正義感をくじく」だけの風潮がまかり通るだけになろう。それだけは絶対にアカン。今回のケースにおい

便所の落書きシリーズ・落語「コロナの世の中」

あるところに、コロナ禍に過敏に反応するあまり、家をろくに出ていないお坊ちゃまがおりました。 これではさすがに体にも良くないと家族が心配して、桂三枝や吉村知事が「いらっしゃーい」とはしゃぎだしたころに、外へと連れだしたのです。 外出したお坊ちゃまはびっくり、誰もかれもがマスク姿。かつての世の中とはすっかり変わってしまっていました。 もう一つ驚いたことがありました。 それは、街を行く女性の多くが美人だったことです。世の中にはこんなにきれいな女性が溢れているのか、とお坊ちゃまは驚きつつも楽しくなりました。 それから、幾たびの緊急事態宣言や軟禁生活を経て、晴れてコロナ禍が収束した世の中がやってきました。 お坊ちゃまは、たくさんの美人で目の保養をしようと、意気揚々と出かけていました。 お坊ちゃまはびっくりしました。あのとき美人に見えた女性たちは、マスクを外すと、全く違って見えたのです。 ガッカリして家に帰ってきたお坊ちゃまは、親にこう言いました。 「やっぱり、世の中コロナに限る」 ※割と真面目寄りな記事が続いた弊ブログですが、こういうことも書きます。もちろん、目黒のサンマのパクリです。

たなたな58迷馬・①シャムローグ

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ドライスタウトが全日本二歳優駿を制し、私の出資馬による、初めてのGI(級)レース勝利となった。改めて、ドライスタウト、戸崎騎手、牧浦先生ほかこの馬にかかわってくださったすべての関係者の皆様に感謝申し上げたい。 ここで、私の一口馬主も一つの区切りを迎えたということで、過去に出資した馬たちを振り返っていきたいと思う。題して、「たなたな58迷馬」。最初に出資したシャムローグから、ドライスタウトまでを振り返っていく。 第1回は、シャムローグである。 キャロシルク赤バッテンアンチな私からすると意外に思われるかもしれないが、10年ほど前はキャロットクラブ会員であった。 糞みたいな職場環境であった某地方銀行から退職し、1年のフリーター期間を経て、今の役所が、よほど見る目がなかったのであろう、拾ってくれて、無事転職が決まった。当時の人事課の見る目と僕の馬を見る目はいい勝負だと思う。 自分への転職祝いとして、中学生のころからやりたいやりたいと思っていた一口馬主を始めようと思い立った。個人馬主は無理であろうから・・・とこの趣味に目を付けていた、妙に現実的な、夢のないガキである。 月々の費用を考えると、400~500口クラブでないと無理。当時はもっと分割口数の多いクラブはあっただろうか。無かったように思う。今始められる方は、そういう意味でも恵まれてると思います。 閑話休題。出せる価格帯のクラブであって、所属馬が活躍していたのがキャロットクラブだったので、とりあえずキャロットクラブに資料請求した。 そして、選んだのがシャムローグである。現役時代に大好きだったディープインパクト産駒であること、また、それにもかかわらず一口4万円というリーズナブルな価格 (可視型地雷やんけ) であったことから出資を決めた。馬体が小さかったが、仔馬やしそんなもんやろ、そのうち大きくなるやろ、大きくなったら儲けもんや、という期待・願いを込めての出資であった。 かくして、私の一口馬主ライフはスタートした。これにて、58迷馬第1回はおしまいである。 えっ、シャムローグの競走馬生活について? 物事には語らない方がいいこともあるんですよ。 とはいうものの、一つだけ思い出と、それに関わる気持ち悪い話を語ることとする。 結局全く大きくならず、競走能力も伴わない、典型的な「鹿」であったシャムローグの最後のレースは、ダートのレース